中生館の誕生
四万温泉最奥の、
手作り風呂から。
四万温泉の旅館で長年番頭として働いていた中路生二(ナカジセイジ)が、四万温泉の最奥地に自らの手で風呂を作り旅館開業を目指しました。
日向見川の石と裏山から切り出した槙の木で何とか風呂は完成したものの調理経験のない中路生二には食事の提供ができず、旅館の開業は頓挫しかけました。
しかしその後、独学で蕎麦打ちを学び、蕎麦屋としてひっそりと営業しながら調理技術を磨いていきました。やがて料理の提供ができるようになり、本格的に旅館として開業することになりましたが肝心の屋号が決まっておらず、親交のあった日蓮宗の僧侶に屋号についての助言を求めました。その結果、“中路生二”から二文字とり“中生館”が誕生しました。
開業当時から現在まで
草津の上がり湯、
四万温泉。
当時の四万温泉は温泉療養を目的とした湯治客で大変賑わっておりました。湯治客はまず草津温泉の酸性湯で身体(患部)に刺激を与えて、四万温泉の中性湯で刺激を和らげるといったように過ごしておりました。
そのため四万温泉は「草津の上がり湯」として位置付けられておりました。そんな四万温泉の中でも“四万温泉発祥の湯”とされているのが当館の目の前にある日向見薬師堂境内から湧出する“御夢想の湯(ゴムソウノユ)です。
中路生二は、この源泉を求めて来訪する湯治客に蕎麦を振る舞い、その後に温泉宿として中生館を開業。開業後、中生館は1週間程度の温泉療養(湯治)を目的としたお客様を主として営業。
そして、現在は一人旅をメインとした温泉宿として、さまざまなお客様に親しまれています。
昔のままの温泉
竹筒による
温度調節が生む
ありのままの源泉
かじかの湯や薬師の湯には、気温とともに変化する源泉温度に対する湯船の温度を適温に保つための工夫として、温泉の吐出口には竹筒が当時から使われてきました。
この竹筒は内径の大きさによって、湯船に入る温泉の量を調節することができ、それにより湯船の温度を調整しています。
それだけでなく、竹筒を付けた湯船のお湯の量を調整することにより、別の湯船に送られる温泉の量も調整できるので、結果として全ての湯船の温度調整機能も担っておりま
気温とともに湯温が下がる冬季は、吐出口から竹筒を外すことで湯量を増やします。一方で気温とともに湯温が上がる夏季は、内径の小さな竹筒を使用して湯量を減らします。この原始的な調整方法は自然湧出且つ自然流下で源泉を引湯できる場所でのみ有効で、今日ではほとんど目にすることができません。